『推し、燃ゆ』
「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」
冒頭1文目にして題名の意味合いを感じ取る。
なるほど、推しがファンを殴って炎上。その真意なんて知る由もなく、読み始めた私は既にそこで本作に授けられた題名に納得した。
本作を手に取る動機は至ってシンプル。自分が「推し」を持っているから。付け加えるならば、「推し」を持つ人間を客観的に、第三者目線で感じたかった。自身が「推し」を持っている時点で第三者ではないのだけど。
寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。
その通りだと思った。生きていくために欠かせない行動には大抵お金はかかるし、基本的には学校や職場に行かなければならない。生きていくために。そこでのコミュニケーションはマストだ。相手の心を推し量り、良好な関係構築の為に日々頭をフル回転。配慮という言葉では足りないほどの気を遣い、知らず知らずのうちに身を削る。少なくとも私の場合は。人に嫌われないようにできるだけ目立つことをやめて、自分の形跡を最小限に留めようとするようになった。怒られないように人から頼まれた仕事は100まできっちり仕上げるが、プラスアルファはできなくなった。そのプラスアルファによって自分の形跡が残るからである。その結果"言われたことしかできない人"になったのが悔しくて、どうせ怒られるなら自分が満足するまでやって怒られたいと思った。そこで今は、どうにでもなれと半ば諦めの気持ちで自分の行動を変えようと努力している。そんな風にベクトル転換が出来たから良かったものの、それもこれも生きているだけできてしまった皺寄せだった。
主人公がそれらから逃れられる瞬間、それは推しを推している時だ。
労働時間を推しに使うお金に換算して働く描写は自分そのものだった。1時間働けばシングル1枚、あるいは雑誌1冊、4時間働けばアルバム1枚、10時間働けばライブ1回、そんな風にして日常生活における行動を”推し”を媒介に落とし込むと、それらも”推しを推している時”と同義になる、というより無理やり同義にして生きている。
日々の辛いことも推しがいるから頑張れる。自分の背骨もまた、推しに浸食されているのかもしれない。
私の背骨は推しではない。浸食されているだけで背骨自体ではない。
もちろん、推しのために頑張るという行為は数多くあるが、推しを人生の軸として生きているつもりはない。あくまでつもりだが。
大学受験の際、私は推しを推すことから離れた。当時母に言われた一言がきっかけである。
「あなたの推しはあなたの人生の責任を取ってはくれない」
当時はそんな母親に無理やり推しを剥奪されたに等しかった。でも今ならその言葉の意味がわかる。人生をかけて推しを推したところで、自分の人生の責任を取らなければいけないのは紛れもなく自分自身だけだから。
雑誌等の推しが紡いだ言葉から、いくら”彼”を見出そうとしても、それはアイドルを全うする上で彼が創り出した彼が求める人格なのかもしれないし、表舞台に立つ彼を見ている以上本当の彼を知ることなんて不可能。一方で自分も、推しを推す行為と自分の人生を重ねてばかりいては、いつか四つん這いで過ごすというような主人公になりかねない。そんな事実に対してひどく寂しい思いを抱えている時点でもしかしたら推しは私の背骨と化しているのかもしれない。
滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶苦茶にしてしまいたかった。テーブルに目を走らせる。綿棒のケースが目に留まる。わしづかみ、振り上げる。
叩きつけた綿棒のケースを片付けるのは、割れたコップや散らばったどんぶりの汁を処理するよりもずっと楽だ。数ある物から綿棒ケースを選んだ時、主人公の行動の軸は推しではなく、自身だったのかもしれない。推しである背骨が抜き取られ、推しによって滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、自分から滅茶苦茶にしてしまいたくなったその瞬間の背骨は推しではなかったのか。...わからない。
知らないようでどこか馴染みのある、存在しないのに触れ合った記憶のある主人公像。得体のしれない恐怖を感じた。
推しは人になった
私の推しも人になる日がいつかは来る。
来るべきその日、私は二足歩行ができるだろうか。